「庭の実測は、根の要る仕事」

山中 功(やまなか・いさお)

略歴:1944年、奈良に生まれる。造園家、庭師。1962年に森蘊と出会い、1970年4月より庭園文化研究所所員となる。1980年10月から山中庭園研究所を設立し、作庭のほかに、古庭園の実測や復元整備にたずわる。2017年12月に文化庁長官表彰を受賞。
場所:奈良市柳生町 旧柳生陣屋跡|日時:2018年4月4日
場所:奈良県大和郡山市 松尾寺|日時:2018年4月4日

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旧柳生陣屋跡 史跡公園(一般公開)

柳生陣屋跡は細長い谷の中央の高台に位置する。台地の上は海抜高264m前後で、東西に約60m、南北に約160mの平坦地である。寛永19年(1642)に柳生宗矩が屋敷を建てたとされるが、延享4年(1747)に焼失し、再建されることがなかった。明治以降に小学校と農林学校が設立されたが、昭和中期に両学校が移築されることをきっかけに、史跡公園の整備が始まった。
奈良市の依頼により、森蘊は昭和52年(1977)から55年6月にかけて柳生陣屋跡の実測・発掘・整備工事を指導した。その際は山中功が中心となって、実測から施工まで担当した。
陣屋跡の痕跡は校舎の建設の際にほとんど壊されたが、発掘調査によって、かつての井戸の位置があきらかになった。当時の上流住宅において、井戸は台所の内側に位置するのが慣例であったことから、森は享保12年(1727)の古絵図を参考にしながら、切石積みで建物の平面表示をおこなった。北側の長屋跡を花壇とし、中庭に景石を配置した。
陣屋の北にあった凹地を利用して、森は枯池を作った。それは遺構の表示ではなく、森による新しいデザインであった。作庭意図はあきらかではないが、中央に配置された中島と立石は近くの浄瑠璃寺庭園を彷彿させる。
当初は武士にちなんで、サクラを主に植えたが、現在も毎年春になると桜祭りなどを開催し、柳生のサクラの名所として賑わっているという。枯池は草本類や低木類の繁茂にほとんどより埋没しており、地元でもその存在がほとんど知られていないが、集いと憩いの場という、公園として機能して続けている。

参考文献

森蘊「昭和52年度 柳生陣屋跡発掘調査報告書」奈良市 1978年

森蘊の一言

「井戸の石積み付近は、他所のとは異なる黒色の粘土層が海抜高さ262m(地表より約2m下方)ほどに下って、井戸を取りまいている。これは、井戸の位置は昔の湧泉で、その泉を中心にした池があり、その清水を飲料その他に利用した中古、中世の人々がこの付近に住居を選んだ気持がよく理解できる」(「昭和52年度 柳生陣屋跡発掘調査報告書」より)

松尾寺(外苑:一部のみ現存/本坊北庭:非公開)

松尾寺は奈良盆地の西、松尾山の中腹に位置する山寺である。寺伝によると、天武天皇の皇子・舎人親王が養老2年(718年)に42歳の厄除けと「日本書紀」編纂の完成を祈願して建立したという。中世以降は修験道当山派の拠点として栄え、興福寺一乗院の支配下、また法隆寺の別院にもなった。現在は日本最古の厄除け寺と称され、毎年の初午の日には多くの参詣者でにぎわう。
昭和35年(1960)に行われた境内の環境整備に合わせて、森が新しい庭「外苑」を作った。東に向かって下っている斜面を利用して森は三段に分けて回遊式庭園を構成したという。現在は上段の一部しか残っていないが、現地に残っている階段や石組み、または森が残した記録や古写真などを通して、その姿を想像することができる。
昭和50年(1975)に本坊が修理されてから森は「北庭」という、竹垣に囲まれた小さな空間を整備し、厄除けの庭を作った。その庭に関する記録や古写真は見つかっていないので、その作庭に直接かかわった山中功さんの証言は貴重な資料となる。通常は非公開であるが、本坊の玄関脇から竹垣越しに見ることができる。

森蘊の一言

「山登りの好きな私は、深山や幽谷の思いがけないところで、昔のどんな名園にも試みられたことのないほどのすばらしい滝や、枯山水的岩石郡にしばしば出くわすとき、とうぜん人間の造った庭園など、偉大な自然の造形の前には影が薄いことはわかりきっていながらも、そうした感動をいつかは日本のどこかの庭園の一角で樹立してみたいと願っていた。
昭和三十五年以来公的に依頼されていた松尾寺の環境整備の一環として、伽藍の東側につづく斜面の庭園化がもち出された。ところがその敷地たるや地形は急峻、谷のほり込みが深すぎることなど、普通の観念での庭園など、とても造れる場所ではなかったのである。(中略)そうした敷地を調査しながら、私は京都あたりの名園のことは忘れて、かつて心うばわれたことのある、中部山岳地帯の力強い岩場のそこここの姿を思い出していた。それから一年半、ようやく庭園はいちおうの完成を見た(後略)」(森蘊『庭ひとすじ』学生社1973、190-191頁)